なんかやりきれないなぁ、と思うのでちょっとだけ書いてみます。人によっては不愉快に思う人もいるかと思うので、そういう方は読まないことをお勧めしときます。
「コミュニケーション」というのはそもそもどういうものなんだろう?
私にとっては「お互いの気持ち・考えを『相互理解する』こと」です。
なので、当然の如く、「相手の気持ちや考えを考慮するつもりがない」=「他人を不当に利用する」「挨拶、礼、詫びといった最低限のことが出来ない」「相手の話を聞くつもりがない(先に結論があるので、理解しようという気がそもそもない)」人とは、「コミュニケーションが成り立たない」という結論になります。
では、自分が「コミュニケーション」を取ろうと思ったならば具体的にはどういう行動になるかというと、
「相手の話を聞く」→「相手の話を分析する」→「相手の意見によって自分の意見が変化するかどうか検討する」→「検討した結果を伝える」→「相手の話を聞く」(以下、妥協点がきちんとみつかる等、双方が納得するまで続く)
といった感じになります。要するに徹底した話し合いです。
欠点としては、「話し合いが出来ない相手とは喧嘩別れにしかならない」「一見、狷介なように見えやすい(コミュニケーションを下位に置いているように見えやすい)」「(うまく話し合いが進行しないと)『自分の考えを押し付けようとしているだけ』に見えかねない」というのがあると思います。
えーと、ここで「(コミュニケーションを下位に置いているように見えやすい)」と出てきましたが……そうなると、この「コミュニケーション」というのはどういうものなのか、ということに疑問が沸いてきます。少なくとも、自分にとっては「コミュニケーション」重視の結果であるのに、それがコミュニケーションをないがしろにしているように見えるとしたら、どこかで認識がずれている。
で、つらつらと考えてみるに。
そういう見方をする方々の「コミュニケーション」というのは「誰もが不満があるのだから、みんな少しずつ我慢してにこやかにお話しを続ける」ということのように思います。どうあっても個々人で考えは異なるものなのですから、それも人間関係を円滑にする上では有効なことと言えるでしょう。
欠点としては、「非常識な人がいたときに、他の人の負担が大きくなる」「理解したつもりになって勝手に譲っているだけなので、相手の考えに対する理解が薄くなる(→時間の経過につれて綻びが大きくなる可能性が高い)」「自分の考えの方も伝わっていない(→時間の経過とともに不満が噴出する可能性が高くなる)」ということが挙げられると思います。
で、ここまで考えてきて、私がどういう考えになっているかというと……やっぱり私にとっての「コミュニケーション」は前者です。他人の気持ちを思いやる、という名目で他人の気持ちを勝手に決めつけて終わることを推奨するのはどうも私としては受け入れ難い。また、誰かの苦痛を無視して「もっともわがままを言った奴が得をする」ような場にはいたくない。
(勿論、「言うべきではないこと」までその大原則に則って言ったりはしませんが。しかし、そもそもその「言うべきでないこと」も極端に違う人もいるんだよなぁ……)
どうしても「人として最低ラインの礼儀」がなってないのに他人と一緒に遊びたいというなら、せめて、判定が必要になったらシートの数値使ってダイス振ればいいだけってゲームをお勧めしたいです、私としては。その方がきっとお互いに幸せ。
「コミュニケーション」というのはそもそもどういうものなんだろう?
私にとっては「お互いの気持ち・考えを『相互理解する』こと」です。
なので、当然の如く、「相手の気持ちや考えを考慮するつもりがない」=「他人を不当に利用する」「挨拶、礼、詫びといった最低限のことが出来ない」「相手の話を聞くつもりがない(先に結論があるので、理解しようという気がそもそもない)」人とは、「コミュニケーションが成り立たない」という結論になります。
では、自分が「コミュニケーション」を取ろうと思ったならば具体的にはどういう行動になるかというと、
「相手の話を聞く」→「相手の話を分析する」→「相手の意見によって自分の意見が変化するかどうか検討する」→「検討した結果を伝える」→「相手の話を聞く」(以下、妥協点がきちんとみつかる等、双方が納得するまで続く)
といった感じになります。要するに徹底した話し合いです。
欠点としては、「話し合いが出来ない相手とは喧嘩別れにしかならない」「一見、狷介なように見えやすい(コミュニケーションを下位に置いているように見えやすい)」「(うまく話し合いが進行しないと)『自分の考えを押し付けようとしているだけ』に見えかねない」というのがあると思います。
えーと、ここで「(コミュニケーションを下位に置いているように見えやすい)」と出てきましたが……そうなると、この「コミュニケーション」というのはどういうものなのか、ということに疑問が沸いてきます。少なくとも、自分にとっては「コミュニケーション」重視の結果であるのに、それがコミュニケーションをないがしろにしているように見えるとしたら、どこかで認識がずれている。
で、つらつらと考えてみるに。
そういう見方をする方々の「コミュニケーション」というのは「誰もが不満があるのだから、みんな少しずつ我慢してにこやかにお話しを続ける」ということのように思います。どうあっても個々人で考えは異なるものなのですから、それも人間関係を円滑にする上では有効なことと言えるでしょう。
欠点としては、「非常識な人がいたときに、他の人の負担が大きくなる」「理解したつもりになって勝手に譲っているだけなので、相手の考えに対する理解が薄くなる(→時間の経過につれて綻びが大きくなる可能性が高い)」「自分の考えの方も伝わっていない(→時間の経過とともに不満が噴出する可能性が高くなる)」ということが挙げられると思います。
で、ここまで考えてきて、私がどういう考えになっているかというと……やっぱり私にとっての「コミュニケーション」は前者です。他人の気持ちを思いやる、という名目で他人の気持ちを勝手に決めつけて終わることを推奨するのはどうも私としては受け入れ難い。また、誰かの苦痛を無視して「もっともわがままを言った奴が得をする」ような場にはいたくない。
(勿論、「言うべきではないこと」までその大原則に則って言ったりはしませんが。しかし、そもそもその「言うべきでないこと」も極端に違う人もいるんだよなぁ……)
どうしても「人として最低ラインの礼儀」がなってないのに他人と一緒に遊びたいというなら、せめて、判定が必要になったらシートの数値使ってダイス振ればいいだけってゲームをお勧めしたいです、私としては。その方がきっとお互いに幸せ。
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